西国三十三度供養塔


西国三十三度供養塔

さいごくさんじゅうさんどくようとう

江戸時代 天保5年(1834年)

 この供養塔は西国三十三箇所観音霊場を33回にわたって巡礼したあかつきに建てられた塔であります。銘によれば、泉州貝塚の畠中村の隨道(ずいどう)という行者(ぎょうじゃ)が巡礼を満願したとあります。近代にまで続いている西国観音霊場の巡礼は古くからたいへん大きな功徳とされ、江戸時代当時、一般の人々が自由に移動することが難しいときに、行者は特定の管轄下のもとで遊行の宗教者として近畿2府4県と岐阜にわたる札所寺院を巡礼し続ける特権を得た人でありました。その功徳をいただいて結縁(仏道に縁を結ぶ)した人々による記念碑のようなものであります。この隨道という行者は御室御所(京都・仁和寺)の管轄下のもと、南大阪の組に所属して巡礼を行っていたようです。

 供養塔を建てるにあたって結縁した人の名前は、塔の基壇に書かれており、施主には堺の『平野屋(ひらのや)』の2人と刻まれ、さらに元は素行の悪かった鋳物師であったが改心して近畿一円に石造物を奉納したといわれている神南辺庵の大道心隆光(だいどうしんりゅうこう)という僧が建立の発起人とみられます。

 

 巡礼の旅の先々で民衆に観音信仰のありがたさを説き回る行者が何らかの縁をもってこの安威の大念寺に記念の供養塔を建てたものと考えられます。実際、近くには西国街道が通っており、第21番札所の穴太寺(亀岡市)、第22番札所の総持寺(茨木市)や第23番札所の勝尾寺(箕面市)の観音霊場が近くにあります。

 西国巡礼の行者と浄土教信仰の深いつながりを示すものであり、商人の名が挙げられているなど江戸期の大念寺の信仰形態を考える上で、貴重な史料でもあります。


(正面)

御室御所御法意
西国三十三度供養塔
傳来五人行者

 

(右面)
天保五甲午三月十八日

 

(左面)
泉州貝塚里畠中村
行者隨道

(基壇部)
供養塔施主

さかい
平野屋利兵衛
平野屋佐助

発起
神南邊庵
大道心隆光