大織冠神社(藤原鎌足公古廟)

(読み:たいしょっかんじんじゃ・たいしょくかんじんじゃ)


大織冠神社藤原鎌足公廟

別名

将軍塚

大織冠廟

大織冠鎌足公古廟

石寳殿

胴塚・動塚

藤原氏ノ荒墓


 当寺から南西へ1.5キロ程の所の西安威の丘陵(通称:将軍山・大織冠山・阿威山)にあります。現在は阿爲神社管轄の神社として整備され、中臣(藤原)鎌足公の神霊をお祀りする霊廟です。毎年十月十六日に廟前にて祭事を行っています。

 昭和初期に阿武山古墳が発見されるまでは、鎌足公の元墓とされ、当山の開山上人、定慧上人がこの墓から父の遺骸を多武峰に改葬したと伝えられてきました。この伝説は『多武峰略記』(建久九年1197)の記述を基に比定されてきたと考えられ、江戸時代の当山縁起にも同じ伝承が記述されています。

 実際、明治時代までは毎年、藤原氏末裔の九条家が廟に参詣し、それにあたって安威の庄屋(吉田氏)を宿所とし、当山にも来られていたといわれます。

 文政年間には当地の領主、深津氏藤原正保が鳥居を寄進、明治十四年には九条道孝公が廟前に石碑を建てました。

大織冠神社藤原鎌足公廟
石段下から

 神社とされたのは明治以降で、当所の岩窟を大織冠廟と比定する現存の資料は江戸時代の類から初見され、いつ頃から周知されてきたのかは諸説あって謎がのこります。

 

例えば、

―「大織冠山」という名称については大念寺の裏山をそう呼んでいた資料も現存している(江戸時代初期の上林竹庵銘の安威庄絵図)。

―「阿威山」という名称についても大念寺の山号が古くから「阿威山」であり、昭和に発見された「阿武山古墳」の「阿武山」は「阿威山」と同一なのではないかとも言われている。

―室町時代の幕府関係資料『蔭涼軒日録』(寛正四年十二月)の条に摂津善法寺の大織冠廟堂に修理費を募縁せしむるという記述がみられる。(善法寺とは大念寺の前身の名称)

 

 最近の説では平安~鎌倉時代に藤原北家の九条兼実が安威の荘園を本所とした頃に、荘内の丘陵を伝承されてきた鎌足公の『阿威山墓』に比定したのではないかと言われています。『多武峰略記』を編纂したのもこの頃で、同時に、後の改葬先とされる多武峰(奈良県桜井市・現、談山神社)の霊廟の創建由緒に厚みと真実味をもたせることにつながらせるのに大きな役割を果たしたといえます。

『別社大織冠神社緒記絵図面書上簿』明治七年
檀信徒 吉田収二氏蔵『別社大織冠神社緒記絵図面書上簿』明治七年より

 しかし、古くから「鎌足公の神霊を祀った霊廟」として信仰されてきたのは事実であり、
 明治時代の地元の地誌によれば、大織冠神社の祭神は鎌足公で相殿には淡海公(藤原不比等)を祀っており、鎌足公は天智天皇八年十月十六日薨去し、初めは此の石窟に葬られたが、後に遺言を奉じて定慧上人が多武峰に改葬するにあたり、鎌足公所持の鏡・太刀三口・左鎌を神霊代として納め、天智天皇十年八月一日に社殿を整備して鎌足公の神霊を祭祀しました。それから後に左鎌は紛失しましたが、鏡・太刀は官許によって取り出され、阿爲神社の神宝として伝来する。―と記録されています。(参考『別社大織冠神社緒記絵図面書上簿』明治七年、当山檀家吉田収二氏所蔵)

 

 現在の安威の郷民の考えとしては、昭和初期に安威に隣接する「阿武山」から鎌足公ではないかといわれる古墳が発見された以降は「大織冠神社」を鎌足公の「詣り墓」、阿武山の古墳を「本墓」として捉えているのが一般的であり、さらに鎌足公ゆかりの大念寺や阿爲神社に囲まれ、いずれにせよ当地域が「鎌足公ゆかりの地」として全く変わらないことに誇りを持って今に至ります。

場所


平成26年8月編集