安威の殿さま(深津の殿さん)

安威の殿さまのお位牌(江戸時代)
安威の殿さまのお位牌(江戸時代)

珍しく知行地にまつられる旗本のお殿様

当寺には江戸時代、地元安威を治めていた殿様のお位牌をおまつりしています。(上記の写真)

 安威の村は江戸時代から幕末まで深津氏・中川氏・土井氏の3人の殿様によって領地を分割して統治していました。なかでも深津氏は徳川家康の御家人の一族で、江戸時代中頃の殿様であった深津弥十郎正貞(ふかつやじゅうろうまささだ)は京都の明正天皇の警護役の侍として安威村の五百石を与えられた千石の旗本でした。江戸幕府の公文書にもふたりの名前がみられ、確かなものであります(『徳川実記』)。

茨木安威の殿様のお墓
殿様のお墓(現:安威西山墓地)

珍しい知行地による祭祀

 旗本になった殿様は普通、江戸に屋敷を与えられて死後も江戸のお寺に葬られるのが原則でしたが、この深津弥十郎正貞と子の八郎右衛門正国(はちろうえもんまさくに)だけは珍しく安威に葬られました。確かな理由は分かりませんが、村の言い伝えによれば、深津の殿様は知行地の安威がとても大好きで、村民を思いやる殿様であったからだといわれています。2人の墓石は現在は安威の共同墓地に在り、金塗りのお位牌が当寺の本堂に祀られています。(上記画像)

深津家と藤原氏

 『深津家』は藤原氏の末裔とされ、このお2人も、藤原の姓(かばね)をいただいていたので、お位牌に寺紋と同じ「上り藤」の紋が入っています。

 江戸時代に藤原鎌足公が始祖である藤原氏の関係氏族がこの安威を治めていたのは、ここは古くから藤原摂関家の九条家の荘園でもあった重要な場所なので深津のお殿様は朝廷側(公家)と幕府(武士)との関係を取り合っていたと考えられます。


お戒名

戒名:柳源院殿前越州太守江岸祖長居士

深津大膳大夫弥十郎正貞 越中守従五位下藤原氏

万治3年(1660)3月8日卒(寂)

 

戒名:通巖院殿且山休清居士

深津八郎右衛門正国 藤原氏

享保18年(1733)11月29日卒(寂)

八郎右衛門正国は戦国武将の朝比奈元長の曾孫良明の五男で深津正貞の娘を室として深津家に婿入りしました。弥十郎正貞が亡くなると、家督を継ぎました。江戸幕府の職をこなし、駿河国(静岡)の町奉行もしていたようです。


墓所の位置