安威地区の旧末寺


善法寺(大念寺隠居所)

ぜんぽうじ(大念寺資料には善法院との記載もあり)

 天正18年に専誉流念上人が大念寺と共に復興再建しました。現在、大念寺の院号が「善法院」であるため、かつて藤原鎌足公が初めて安威に建てた寺院が「善法寺または善峰寺」であったとされるため、旧の本寺に当てはまる寺院が末寺、隠居所として存続していたようです。

 明治6年に大念寺に合併し、廃寺となりました。


稱名寺

しょうみょうじ

 天正18年に専誉流念上人が大念寺と共に復興再建しました。安威二丁目に存在したと考えられます。尼寺であったともいわれています。


福壽院

ふくじゅいん

 天正18年に専誉流念上人が大念寺と共に復興再建しました。天保14年の「安威村明細帳」には土井大炊守の支配所(年貢地)とあります。その後、明治6年に大念寺に合併し廃寺となりました。

安威小学校の前身として再利用

安威小学校の前身
福寿院を利用した小学校の様子

 それから、明治121023日には福壽院の建物をそのまま利用して安威に初めての「安威小学校」が開校しました。明治12年の見取図によると、仏間を教室として利用し、僧侶の住居は職員室として転用されていた様子です。また右には大きな納屋があって、子どもが叱られるとその中に入れられたという逸話が残っています。現在の安威小学校の前身をにないました。


西福寺

さいふくじ

 寿量山西福寺(じゅりょうざん、さいふくじ)という名前が資料にみられます。天保十四年の明細帳には深津弥左衛門の支配所(年貢地)とあります。現在の安威西所にあったお寺で、天正18年に専誉流念上人が大念寺と共に復興再建しました。その後、明治6年に大念寺に合併し廃寺となりました。

 本尊は阿弥陀如来坐像で、昭和期、大念寺21世仁誉孝勝上人のときに戦災で被害を受けた兵庫県西宮市の西安寺の新たな本尊として移られました。西安寺には本尊坐像の他にも、西福寺の阿弥陀如来立像・両大師像などもあわせてお移りしました。


宮寺

みやでら

 現在では資料上にのみ出てくるお寺ですが、住んでいたとされる僧侶のお墓などが安威に存在することは確認できました。いつ、創建・廃寺になったのか不明ですが、宮寺とは神宮寺の可能性がうかがえます。今後も調査が必要です。


岸生庵

がんしょうあん

 将軍山(しょうぐんやま)の山裾に江戸時代中期に大阪の某氏が関わって創建された寺院で、尼寺であったと伝えらています。現誉岸生法子(げんよがんしょうぽっち)という僧侶が開基で、仏間と居住空間を設けた小さな庵室であったと考えられます。明治6年に大念寺に合併し、廃寺となりました。